創世記のストーリーは、人類の進化の物語と解釈することもできれば、退化の物語と見ることもできます。
神の言葉を字義通りに受け取れば――なんの話かわからないかもしれませんが、すぐにわかってくると思います――人間は神――聖書には「我ら(us)」と書かれています――のようになると、神は言いました。
アダムとイブが智恵の樹の実を食べた後で、人間は善悪の違いを知るようになったため、神のようだと神は言います。
奇妙なことですが、聖書の中では、神は実際に「我ら(us)」と言うのです。ご自分で調べてみてください。
ですから、神の言葉をそのまま受け止めれば、人間は禁断の実を食べたことによって進化したのです。
智恵の樹の実を食べたことによって、人間は神の不興を買い、ニール・アームストロングが言った「人類の偉大な跳躍」とは逆に、偉大な退却をして、退化してしまったと、多くの人が教わりました。
しかし、牧師の言葉よりも神の言葉を信じるなら、実際に起きたことは、そうではありません。
人間は一段高い存在になったと、神は言ったのです。ただし、一段上がったことによって、知識に対する責任が生じ、私達はいまだにその責任と格闘しています。
樹の実を食べた後の聖書の記述はすべて、人間が善悪の知識の責任をいかにちゃんと果たせてこなかったかについての記録です。
私達は今も、その責任を果たすための智恵を手に入れようともがいています。ここで、善悪という極端な概念から一歩下がって、好き嫌い、あるいは、好みという観点で見てみましょう。
好みが意見の相違になり、議論へと変わり、戦争へと至ったあらゆる例に思いを馳せてみてください。
(パート2へ続く)