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生命の樹への帰還(パート2)


文化の違いは、多くの戦争の原因と同じように、単なる好みの違いではないでしょうか。

現代の戦争の大半は、もちろん宗教の違いから起きており、それは私にはむしろ文化の違いに見えますし、それが恐らくはすべての戦争の、人口増加と移住の結果生じる資源を巡る争いの、本当の理由のように思えます。

私達は単純な好みの違いで苦しみます。

多くの宗教が、人生を苦しみと定義します。苦しみ、すなわち内なる戦争が、バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナとアルジュナの対話の背景です。

また、レイチェル・ナオミ・リーメンが祖父の話として『My Grandfather’s Blessings(訳註:祖父の祝福)』で紹介しているハヌカーの物語のカバラ的解釈は、人生は戦争に似ており、人生の苦しみは、魂の光を通して私達がつながり、支え合うことで乗り越えられるとしています。

お互いを啓蒙しながら、コミュニティを作り上げるのです。

物質と人間存在は、相反していながら補完し合う陰と陽がつねに働いていると老子は考え、それを善と悪のせめぎ合いと解釈する人もいますし、釈迦の四諦はまず、人生は苦しみであると説きます。

いえ、正確には、苦しみと言ったわけではありません。

釈迦はドゥッカと言ったのであり、ドゥッカとは、いつもなにか足りないという不満感が人生にはつきまとうという意味です。

仏教を深く学べば、目指すものは不快感や苛立ちを避けたり啓蒙したりすることではなく、どれほど不快な状況や満足できない状況を経験しても、幸福感と慈悲の心を持つ、充足し、歓びに満ちた、親切な人間でいる能力を持つことだとわかるでしょう。

生物レベルでの不満は、生き延びるためにつねに空気や水や食べ物を必要としていることによるものですが、現代社会における不満は、最新機器やスタイルやおもちゃを持っていないことによるものです。

スピリチュアリティですら、不満感を引き起こすことがあります。

完璧なヨガのポーズを手に入れたがったり、せめてスピリチュアルな人間のように他人から見られたがったりするのです。

(つづく)

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