人混みで自分を守るテクニック その5-究極の護身術:信仰


外出前に確実にコンロの火を消したのであれば、火事を心配する必要はありません。 後からそのことについて考えたりすることもないでしょう。 しかし、火を消したかどうかが定かでないまま外出した場合、そのことがなかなか頭から離れません。 信仰とは、「確実にコンロの火を消した」という確信に似てます。

人間は、一日を通して信仰から無信仰へと移り行きます。 生物学的には「動物」である私たちの「戦うか、逃げるか、麻痺するか」という生存本能が、時に私たちのより高等な知識や常識を乗っ取るのです。 現代のほとんどの広告、その生存本能を制御したり、それに影響を与えるようにつくられています。 広告によって、私たちの渇望感と恐怖心が操られるのです。 食べ物のCMには、美味しそうな食べ物が映し出されています。 食品メーカーは、人間という生き物が最低限の努力で、より高カロリーを得ようとするように「設計」されていることを理解しています。 なので高カロリー食品は、短期間生存において自然と魅力的に感じられるのです。 もちろんこれは、現代社会では如何に高カロリー食品を必要としていなかったり、高カロリー食品が多くの病気の原因となっている事実を無視しています。

幸いなことに信仰とは、食生活の改善や日常的な運動よりも簡単に養うことができます。 私は、神様が私自身や私の家族、友人らを守ってくれていると素早く考えるほうが、長い祈りを捧げるよりもより効果的であることがわかりました。 それに、祈りや祈祷が私の生業となった時、私はそれが事実であるのかを考えることすら止めなくてはいけませんでした。 それは単なる怠慢なのではないかと思っていた時期もありました。。 しかし、長い月日をかけて追究した結果、私が捧げる短い祈りには神様に絶対に聞き入れてもらえているという確信が伴ていることに気づきました。 そして、その反対も同様です。 長く熱烈な祈りだからといって、(短い祈りよりも)より良い結果をもたらすわけではないということです。 恐らく、祈りがより熱烈であるほど、その祈りには、更なる恐怖や疑いが吹き込まれているからなのではないかと思います。 それほど感情が伴わない、信仰に満ちた素早く自信あふれる祈りのほうが、私とってはより効果的なようです。

怠惰さを提唱しているわけではありません。 私は、常日頃から神様のことを考え、神様に意識を集中しています。 また幼い頃から神様や人生の意味について考えていましたし、それは今も変わりません。 思い返してみると、私は変わった子どもだったと思います。 大人になった今でも、変わっていると思います。 しかし個人的にはフットボールや政治、音楽、ファッションや食べ物についてよく考えている人たちと自分はさほど変わらないと思っています。 私にとって信仰は、とても興味深く、また面白いのです。 「たったひとり」だと感じたこともありません。 しかしそれは、「孤独で寂しい」と感じたことがないのとは違います。 私も人間ですので、人間としての経験から逃れたいと願ったこともありません。 ハワイの精神性は、統合された精神性です。 精神的なことよりも物質的なことのほうが良いとか、その反対であるということがありません。 知的と感情的のどちらかがいいとか、それよりも精神的なことのほうが良いということもありません。 すべてが、調和の中に保たれています。

私は常に必ず神様を意図を理解しているわけでありませんが、愛するために理解をする必要はありません。 あなたが赤ちゃんの時、あなたは理解せずとも両親を愛していました。 実際、成長とともに知的さや物事への理解を深めていくにつれ、両親への愛を失う人も少なくないと思います。 そうなると、両親を許し、また愛することができるように理解できるまで、相当の努力が必要となります。 神様と私たちとの関係にも同じことが言えます。 すべての「関係」は、誤解と信頼喪失の対象です。 このような危機は、病気に似ています。 病気は、免疫システムに課題を与え、強くしてくれます。 そしてこの「スピリチュアル(精神的)な病気」は、信仰を強め、知恵を与えてくれます。

もちろん、ひとりでは乗り越えられないこともありますし、時に医師に診せなくてはいけないこともあります。 「スピリチュアルな医師」とは、僧侶や牧師です。 スピリチュアルな医師は、同情することを恐れません。 同情の定義は、「共に苦しむ」ということです。 牧師は、説教をしたりあなたを叱ったりせずに、あなたと共に苦しんでくれます。 真の愛には、温かい心があります。 時に神様は、あなたの病気や不快さのための正しい薬として、あなたの人生に「人」を送り込むこともあります。 すべての祈りは、いつも答えられています。 祈りの答えに耳を傾け、それに気づき、神が与えてくださったものを受け取るために学ぶべきは、私たちなのです。 多くの場合、私たちは、自分たちが期待した形で答えが与えられないために、それらを受け取ることを拒否します。 あなたが期待した、あるいはそうあってほしい方法でなかった場合は、それについて嘆き悲しむ前に、理解させてもらえるよう祈りましょう。 そして、心を開いていてください。 頑なになっていても、心や魂を閉ざしても(神様からのメッセージを)受け取ることはできません。 心を開いてください。 怖くても心を開くのです。 そうすることで、あなたはより強い信仰心を養うことができるでしょう。

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