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ダレル・ハラダ

マインドの「フルネス」


何をしよう?何をしよう?

あなたは今、屋内に退避中です。

まるで投獄されてしまったように感じていませんか?。

罰を受けているような気すらしているのではないでしょうか?

子供の頃に、悪いことをするとお母さんに怒られて自分の部屋に入っているように言われた時のように…大人になってからも似たようなことがあるかもしれません…。

理由は何であれ、動物は檻に閉じ込められることを嫌います。

しかし、今回の場合の私たちは、言わば「金庫中で守られているダイヤモンド」です。

私たちは、恐ろしい病や死から身を守るために屋内退避をしているのですから。

多くのスピリチュアル的伝統において、死は意識の「一番遠く」に置くように教えられています。

その理由は、私たちが時間を無駄にしないためです。

命は、儚いものですから、それ程長くないと知ることでできる限り自分の人生とその目的に感謝をする気を起こさせるためです。

ニュースでこの感染症の世界的な流行と多くの死亡者が確認される度に、私たちは死を意識させられています。

このまま何もせずに気がおかしくなってしまうくらいなら、スピリチュアルな訓練の進歩に意識を集中し、活用してみませんか?

命の短さを認識し、その利点を最大限に活かすということと、贅沢三昧人生を送ることで快楽を得ることが、同じであると誤解している人は少なくありません。

不思議なことに、人は何かをたくさん得ると、徐々に喜びを感じなくなります。

心の不思議な一部分です。

最初の一口目、二口目がいつも必ず一番美味しくて、それ以降は徐々に感覚が鈍ってくるのでしょう。

ビールも最初の一口が一番おいしいですよね。

しかし、お酒でも甘いものでも、摂り過ぎると具合が悪くなるのも事実です。

では、スピリチュアルな人たちの言う「人生を最大限に活かす」とはどういうことでしょうか?

それは、「やさしく、愛情深く、慈悲深い自分自身を成長させる」ということです。

成長するためのもっとも良い方法は、瞑想をすることです。

しかし、瞑想の実践の定義は、曖昧です。

瞑想プロセスや実践法の分かりやすい説明が存在していないからではないかと私は思います。

わざと定義されない場合もあります。

学習者が、平和を求めるゆえに実践ではなくその知識にとらわれすぎることは危険だからです。

とは言っても、ある程度の明確さは有益と言えます。

例えば、「マインドフルネス」という言葉について話しましょう。

なんらかの可笑しな理由から、「マインドフルネス」が、心を空っぽにするとか、心を暗闇にするという意味だとされている場合があります。

この誤解は、仏教の訓練の一つの目標である、「相互依存の認識」に起因します。

相互依存を認めるということは、すべてが足りない、空っぽである、完全に独立した存在であることを認識することです。

マインドフルネスとは、心がオープンで何にもしがみついていない状態を指します。

つまり、すべてにおいて完全になれるということです。

サティ(心)とは、鏡に似ています。

それ自体は、事前に何かがあったり、イメージが映し出されるまではニュートラルです。

イメージは、鏡の中に残りません。

空に浮かぶ雲のように通り過ぎていきます。

瞑想は、あなたと心の関わり方を変え、またあなたに気づきを与えてくれるツールです。

気づきを得るとは、寝室にある大きな鏡には、寝室での出来事のみが映し出されるのに似ています。

瞑想は、あなたが全宇宙に気づくことを可能にします。

皮肉なことにあなたは…そう、今これを読んでいるそこにいるあなたは、今いる場所から離れずとも自分の存在の「フルネス」を把握する能力を備えています。

今あなたがいる場所どころか、家を離れなくても宇宙のワンネスを認識することも可能です。

最初の一歩は、マインドフルネスです。

マインドフルネスは、ある行動や物体に注目することで養います。

典型的な行動で言うと、呼吸、徒歩、皿洗いなどです。

典型的な物体は、ろうそくの光、仏陀またはその他の神や仏をかたどった像、音やマントラなどです。

さあ、試してみましょう。

背筋を伸ばして足を床に着けて椅子に座るか、クッションの上に足を組んで座るか、正座でもよいです。

目は半分閉じて、少し先を見るように視線を下ろします。

鼻の角度で視線を下ろすという人もいるようです。

思考、記憶、感情、感覚、またそれらへの反応が(まるで鏡の表面をイメージが遮るように)心をよぎると思いますが、気にせずに流しましょう。

多くの人にとっては、最初は座って行う瞑想よりも、歩くたびに足が地に触れる感覚を認識するウォーキング瞑想のほうが簡単でしょう。

お皿洗いの瞑想もまた、お皿をきれいにするためではなく、お皿を洗うためにお皿を洗いますので、より簡単でもっと楽しいかもしれません。

思考、感情、感覚は常に現れますが、そのまま気にせずに受け流してください。

それらに気を取られてしまったら、気が付いた時点で気を取られる直前にしていたことに戻ります。

気を取られたことに気づくたびに、あなたはより自覚できるようになります。

これが、「気づき」です。

間もなく、あなたは簡単には気を取られることがなくなるでしょう。

あなたの心を含む意識は、よりオープンで完全になり、反応することも少なくなるでしょう。

これが、真の自由への第一歩です。

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